記録は父の内面に迫れるか?

三寒四温の季節となり、そこここに春告げ草がほころんでいます。

この春の誕生日を迎えると、父が鬼籍に入った年齢になります。
これまで漠然とした観念に過ぎなかったものが、年末頃から意識されたように感じます。

父とは40年ほどの時間を共有しました。
幼少期から青年期、成人期に至る息子の変貌をどのように感じ取っていたのでしょうか。
残念ながら彼の口からは、自らのことを含めて語られることはありませんでした。

そんな父がテレビを見ていて、ふっと「こんなの食べたよな」と漏らしたことがあります。
画面に視線を向けると、南洋の島の生活が映し出されていました。
小学生だった私にもそのことばが何を意味するのを理解できました。

10年ほど前に、旧陸軍軍人の兵籍簿を閲覧するために県庁の関係部局を訪ねました。
青年期の一部とはいえ、語られることがなかった父の内面に迫れるのではないかと思いたってのことです。

兵籍簿には旧陸軍軍人としての父の履歴が克明に記されていました。
昭和18年春に現役兵として歩兵連隊補充隊に入営し、
二度の転属をへて同19年1月に広島を発ち、同19年3月に配属地となったニューギニア島に近接する島に上陸しました。
同20年9月現地にて終戦、同21年春に帰還、除隊となりました。
社会的基盤を形成する20歳代前半を南洋の島で軍務に就いていたことになります。

ここで注目したのは、日本を発ち配属地に到着するまでに二か月を要したことです。
輸送船による移送に、なぜこれだけの時間がかかったのでしょうか。
昭和19年当時の南太平洋地域では、日本軍はほぼ制空権を失っており、輸送船による兵員や物資の輸送は困難をきわめていたと推察できます。
選択肢としておそらく夜間輸送に切り替えざるを得なかったのではないかと考えられます。
連夜の漆黒の闇での隠密的移動は、それだけでも不安ですし、
つねに潜水艦に捕捉される危険にさらされることにかわりありません。
このような状況に自らの運命を委ねざるを得ないことは、個人の精神状況に影響を及ぼすことになるでしょう。

目的地に上陸した後も、兵站が伸び切った南太平洋の島では生活物資すら事欠く状況であったと考えられます。
このことは、あの時、父が漏らしたことばに端的にあらわれていたものといえます。

兵籍簿の記録をもって、語られることがなかった父の内面にどれほど迫れたのか疑問はありますが、
復員後の父の言動を理解する一助となったように感じます。

この春の誕生日は、来しかた行く末おもう機会としたいと考えています。

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